禅の究極を達成した女性たちはごくわずかしかいない。蓮月はそうした女性たちのひとりだ。
彼女は巡礼の旅をしていた。日が暮れるころ、ある村に着いたので一夜の宿を求めた。
だが、村人たちは扉を手荒く閉めた。
彼らは町の伝統的な仏教徒だったにちがいない。彼らはこの禅の女性がそこに泊まるのを許さなかった。彼らは彼女を村から追い出した。
寒い夜で、年老いた女性には泊まるところがなかった……それに空腹でもあった。
彼女は野原に立っている一本の桜の樹を拠りどころにしなければならなかった。
ほんとうに寒くて、彼女はよく眠れなかった。それに危険でもあった——野性の獣やなにもかもが。
彼女は真夜中に目が覚めた——とても寒かった——そして春の夜空に、満開になった桜の花が、おぼろ月に向かって笑っているのを見た。
その美しさに圧倒されて、彼女は起きあがり、村の方角に向かってお辞儀をした。
私が泊まるのを断るという 彼らの親切さゆえに、私はこのおぼろ月の夜に 花の下にいる自分に気がついた
非常に感謝して、彼女は自分の宿泊を断った人たちに礼を言った。
さもなければ、彼女は普通の屋根の下で寝ていて、この 祝福を——この桜の花、おぼろ月とのささやき合い、そして夜の沈黙、夜のこの完全な沈黙を逃していたことだろう。
彼女は怒ってはいない。彼女はそれを受け容れる——それを受け容れるだけでなく、それを喜んで迎え入れる。彼女は感謝を感じる。
生は途方もない。そして毎瞬、それはあなたへの千とひとつの贈りものをもってやってくる。
だがあなたは、欲しがっている自分のマインドで非常に忙しく、心を奪われているために、自分の考えであまりにもいっぱいになっているために、その贈りものをすべて拒絶する。
神はやって来る——あなたは拒絶しつづけている。生がもたらす、すべてを感謝をもって受け容れる瞬間、人はひとりの覚者になる。
ZEN: THE PATH OF PARADOX, Vol.3, pp.179-180
久しぶりのOSHOネオタロット。私の大好きな寓話の1つです。
この登場人物〜蓮月は、寒空の中、一夜の宿を村人達に断られ冷たくされます。
でも、それこそが天からの恩寵だったのです。
寒い夜、満開の桜の下で、一瞥を得るために必要なことだったからです。
私たちの人生にも、たくさんの「拒否」が起こります。
挨拶やメールを無視されることから、仕事や就職活動に失敗したり、失恋したり、病気になったり、思うように物事や人生が行かなかったり。
でも、それが天からの恩寵であったとしたら!?
魂が「この道は違うよ」と教えてくれているとしたら?
「こうなって欲しい」「こうあるべきだ」という低いマインドで忙しい時、私たちは結果に右往左往し、悲しんだり、嘆いたり、恨んだりします。
でも、それらは私たちの人生の軌道修正の導き、なのかも知れません。
私も最近、そういう体験をしました。
人生の節目節目において「拒否られる」事が起こりますが(笑)、後から「ああ、あれは魂からのお知らせだったのだな」と理解できる日が、いつも必ずやってきます。
魂の拒否の法則はちょっぴり辛いけど、大きな信頼の力を鍛えられる機会でもあるのですね☆